□展覧会のご紹介
「極私的エロス・恋歌1974」、「ゆきゆきて、神軍」、「全身小説家」など寡作ながらも、映画史を語る上で重要な作品を製作し続ける映画監督・原一男。
原一男が映画監督として活躍する以前、フォトジャーナリストを志す時期がありました。養護学校の介助職員として働きながら、その学校に通う子供たちを撮りためた写真を、1969年、銀座ニコンサロンで発表しました。
原一男初監督作品となる「さようならCP」は、写真展「ばかにすンな」を終えた原が、「写真ではなく、もう一度映画でやってみたい」という想いから撮られた映画です。この写真展がなければ、映画監督・原一男も誕生していなかったかも知れません。
その原一男監督のターニングポイントとなった作品を、原監督にご協力いただき、「gallery
176」のオープニング写真展として、35年ぶりに展示する事になりました。
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映画作りという生き方を選択して三〇数年が経つが、ずーっと目線にこだわって映画を作ってきたのだと思う。
処女作『さようならCP』は、健全者である私自身が障害者を視ることにこだわった作品だし、『極私的エロス・恋歌1974』も、男である私自身が女を視ることにこだわった作品である。
私たちの初の劇映画『またの日の知華』でもそうだ。
『知華』は、ずばり、女と男のドラマであるが、この作品は、男が女を視ている眼差しと、女だって男を視返しているんだ、という関係を具体的に、目線のカットバックという映画の手法を使って描いてみたかったのだ。
で、映画を作り始める前は、私は報道カメラマンになりたかったのだが、その私の初の写真個展『ばかにすンな』でも、実に、カメラ目線にこだわっている
のである。
なぜ、私はレンズ目線にこだわるのか?自問自答してみるが、分からない。分からないのだが、写真にしろ映画にしろ、カメラを持って相手と対峙している時に、強烈な衝動が起きる。私の身体がカメラに変身すればいいのに、という。
2005年 春
原 一男
1969年7月19日、土曜の半ドンが終わった私は、勤め先の六本木から、銀座松屋デパート前のニコンサロンへと、自転車を走らせた。その頃手放さなかった「美術手帖」には、肢体不自由児たちの写真展、撮ったのは24歳の原一男、とだけしか載っていなかったけれど、私は黒々と鉛筆で丸を付けていた。絶対、見に行かなければ、と。私自身はポリオ(小児麻痺)。映画作家を志して上京してきたばかり。街は70年代幕開け前夜の、渾沌とした熱気にあふれていた。
ニコンサロンのしんとした空気の中、モノクロの連続写真に向き合って、私は立ち尽くした。少年たちの視線と、カメラの視線が、まっすぐに、こちらを突き抜けてくる。この写真を撮った人に会いたい、と思った。会って、一言、言いたかった。"まっすぐの視線"が、気になってしかたなかったのだ。
目の前に現れた原一男は大きかった。見上げる程に。10歳以上も年上に見えた。観念過剰、生意気のてっぺんにいた私は、何を口走ったのだろうか。ただ、ひたすら、一足ごとに、傾き、揺れて、崩れてゆく、生身の実感を、ぶちまけたにちがいない。彼は、あるがままの丸ごとを受け止めてくれた。障害者じゃないのに、どうしてこんなに障害者の事が分かるんだろう?
この出合いから2年後、「さようならCP」の撮影はスタートした。ゆあーん、ゆよーん、ゆあゆよん、幾つかの時代が過ぎて・・・
いま、ここに、その写真展が再現されることになった。あの日の、あのまっすぐな視線に、もう一度真向き合うと思うと、胸騒ぎが抑えられない。
疾走プロダクション・プロデューサー
小林 佐智子
□原 一男 (はら かずお)
1945年 山口県宇部市生まれ、東京綜合写真専門学校中退
1972年 「さようならCP」監督・撮影
1974年 「極私的エロス・恋歌1974」監督・撮影
1987年 「ゆきゆきて、神軍」監督・撮影
1994年 「全身小説家」監督・撮影
1998年 テレビドキュメンタリー「映画監督浦山桐郎の肖像」演出
2000年 ビデオ作品「学問と情熱 高群逸枝」監督
1998〜2000年 早稲田大学・文学部客員教授を務める
2005年 「またの日の知華」監督
>>疾走プロダクション(原監督の個人プロダクション)
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