「ケータイ」と「カガミ」は、現代社会を学ぶ為の身近なテキストの一つである。
人々はどんどん「ケータイ」を持って出かけるようになった。この決まりきった動作は、財布や鍵を持って出ることと同じようなものである。少し前までは、私的なことを公の場でさらす行為は恥ずかしい行為だと考えられてきたが、今では道端や電車、レストランの中といったパブリックな空間で、ふとした時間、マが出来、落ち着くと手にはケータイを握り締めてメールやインターネットに励む。
ケータイがパブリックなコミュニケーション空間に流入したとき、さまざまなものが見えてくる。電車内でケータイ片手に会話をしている人に出くわしたりすると、まったく他人であるはずの人々の親密な空間を、ふと耳にしてしまうこともめずらしくない。こんにちでは、誰もが人前で内側の顔を平気でさらしているが、ケータイは明らかに周囲の人々との温度差を感じさせる。
「ケータイ」の撮影をするようになってからしばらくして、電車の中や人の沢山いる雑多な駅前ロータリーでコンパクトに向かうその姿に気になり出す。
「ケータイ」同様、パブリックな空間とプライベートな空間のハザマで認識がなくなっている姿である。「カガミ」に向かうその姿。
以前私は、カガミに向かう姿が見たくて、彼女の部屋へ向かうのに待ち合わせの時間より早く出かけていった。何故なら彼女がカガミに向かうその姿は、他人には見ることの出来ない私と彼女だけの特別な時間のように感じたからだ。
「カガミ」に向かうその姿は、時として独り呪文をといているようにさえ見えてきた。その内と外のハザマで、人の無意識、無関心のようなものを、私は臨場感のあるリアリティのあるキョリに身をおき撮影をした。「ケータイ」と「カガミ」は私の映像を通じて送る「現代社会の表層」としてのメッセージである。
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内野雅文 photo works 1996-2006 詳細
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