西川善康 展示+ワークショップ「output x output」

「マチハニワ」2019-2023
左より オリジナルJPEG-冊子初版-2021年展示-冊子第2版-2023年展示
© NISHIKAWA Yoshiyasu

展示+ワークショップ概要

*今回はワークショップがメインのため、簡易的な展示になります。

タイトル:「output x output」

作家名:西川 善康

会場

gallery 176(ギャラリー イナロク)

大阪府豊中市服部元町1-6-1/阪急宝塚線 服部天神駅(梅田から11分)下車 徒歩1分

会期

2024年4月27日(土)〜4月29日(月・祝)

*通常と会期初日・最終日の曜日が異なります/土曜、日曜、月曜のみ3日間の開催

休廊日

会期中無休

開廊時間

13:00〜19:00

企画

gallery 176 西川善康

機材協力

galerie SPUR 高林直澄

展示概要

 デジタルプリントによる写真作品制作では、撮影データのRAW現像、出力方法(プリンター)の選択、使用する用紙の選択と、多種多様な「output」の方法の組み合わせで作品を仕上げていきます。

 今回は、展示空間で、同じ撮影データを異なるRAW現像、異なった用紙で仕上げたプリントを展示し、それぞれの違いを観ていただきます。また、会場の照明も、壁面と昼白色(色温度5000K相当)、電球色(色温度3000K相当)と違った色味のランプを使い、照明による違いもご覧いただけます。

 また、会期中、会場にて実際にプリントをしていただくワークショップも開催します。

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布垣昌邦写真展「async」

展覧会概要

タイトル:「async」

作家名:布垣 昌邦

会場

gallery 176(ギャラリー イナロク)

大阪府豊中市服部元町1-6-1/阪急宝塚線 服部天神駅(梅田から11分)下車 徒歩1分

会期

2024年5月3日(金・祝)〜5月12日(日) *通常と会期最終日の曜日が異なります

休廊日

5月7日(火)〜9日(木) *休廊日が通常とは異なります

開廊時間

13:00〜19:00

企画

gallery 176 布垣昌邦

作品説明

44年間、生きてきた街『茨木』。1970年の大阪万博以降栄えた何も無い大阪の普通の街で、その場所で根を張って写真を撮り続けて18年経ちました。多くの街を撮影してきて、自分にとってこの街は撮り難く思うような写真が撮れない場所で、生まれ育った街で思うような写真が撮れないという事に、写真家である自分に疑問を抱えて日々の撮影を繰り返してきました。今思う事は、その問答をも含めて自分の写真ではないか、模索することを受け入れた上で、これからもそこに居続けるという事で写真の可能性を考えた時、何となく気が楽になり、続けて行こうという決意が出来て今に到ります。この写真は、人も風景の一部として写真を受け入れるように今(現在)の『茨木』での生活で視ている日常の風景を撮影しています。自分にとっての青の時代2006年から2024年の記録です。

展示構成

四切 インクジェットプリント18点

 

会期中の作家在廊予定

作家布垣は全日在廊予定です。在廊予定に変更がある場合は、Facebook、X(旧Twitter)でお知らせします。

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東松照明写真展〈11時02分〉NAGASAKI

© Shomei Tomatsu – INTERFACE
爆心地から約0.7kmの上野町から掘り出された腕時計(1961年)

展覧会概要

タイトル:〈11時02分〉NAGASAKI

作家名:東松 照明

会場

gallery 176(ギャラリー イナロク)

大阪府豊中市服部元町1-6-1/阪急宝塚線 服部天神駅(梅田から11分)下車 徒歩1分

会期

2024年5月17日(金)〜6月11日(火)

休廊日

水曜・木曜/5月22日(水)、23日(木)、29日(水)、30日(木)、6月5日(水)、6日(木)

開廊時間

13:00〜19:00

企画

gallery 176 友長勇介

協力

INTERFACE−Shomei Tomatsu Lab.

Gallery Nii Tokyo

開催概要

gallery 176を開廊する時の目標のひとつに、東松照明さんの写真展を開催したいという思いがありました。

今回、東松照明さんの奥様、東松泰子さんのご協力もあり、東松照明写真展〈11時02分〉NAGASAKI を開催する事ができました。泰子さん、本当にありがとうございます。

「私の写真展に来られた方々が、展示している写真を見て、感じた思いを持ち帰り、持ち帰った場所でその思いを語ってもらえればと思う」というお話を東松先生がしてくれた事がありました。

その東松先生の言葉通り、1人でも多くの方にお越しいただき、東松照明さんの作品から感じ取ったメッセージを持ち帰っていただければと思います。

gallery 176 友長勇介

作品説明

核時代のキリスト

 国破れて山河ありという。さらに直截には国破れて廃墟ありだ。戦中、私が住んでいた名古屋は、何度も米軍機の空襲にあい、被爆した。町は爆弾で叩かれ焼夷弾で焼かれて廃墟と化した。にもかかわらず私は、廃墟を特別なものと思わなかった。渦中にいると崩壊感覚が麻痺するのだろうか。隣り合わせの死を怖れないように。

 廃墟が見えてきたのは敗戦後のことである。連日のように襲来したB29の爆音が空に響かなくなったとき、沈黙と静寂の彼方に廃墟が見えてきたのである。もっとも、私はまだカメラを持っていなかったけれど。

 私が写真を始めたのは、敗戦から5年後である。私はまもなく基地や廃墟を撮るようになった。が、基地や廃墟を撮るため、どこかへ出かけたわけではない。私の住まいは、米軍に接収された旧日本陸軍の連隊跡地と隣接した町にあった。だから。カメラを向けると、自動的にアメリカが写り込むのである。また、ちょっと歩くと廃墟に出会った。基地も廃墟も、私にとっては、ありふれた日常の光景であった。

 日本の高度成長は凄まじく、いまでは、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にまでなった。日本が不死身のように甦ったのは廃墟からである。この地点からしか出直すことができなかった、という意味で廃墟は戦後日本の原像である。

 廃墟の究極に原子野がある。究極兵器と呼ばれている原爆によって破壊された都市や人間の変質した姿である。いうまでもなく広島・長崎の廃墟のことである。原子野は20世紀中葉にはじめて出現した全く新しいタイプの廃墟である。それは、核時代を生きるものの誰もが怖れている世界の終焉を先取りした光景の一端である。

 私は、いまでも長崎を撮りつづけている。が、はじめて長崎へ行ったのは、1960年である。草の根の市民運動として出発した日本原水協から依頼があり、仕事の1つとして長崎取材を引き受けたのだった。

 私は、原水協の人に案内されて、被爆者の家々を訪ねまわった。そのとき、私の受けたショックをどのように伝えたらよいか。一瞬にして町が全滅したこと、7万余の住人が死亡したことなど、桁違いに大きい原爆の破壊力と殺傷力について、ある程度の知識はもっていた。しかし私は、放射能を浴びた人たちの戦後について、あまりにも無知であった。

 長崎には、15年前の8月9日午前11時02分で止まった時と、その時を基点とする日の移ろいがあり、被爆者の死が、2つの時を繋ぐ桟となっていた。この15年間、長崎では、たくさんの人が、毎年、ひっそりと亡くなっている。私が長崎で見たものは、戦争の痕跡だけではなく、終わらない戦後であった。また、廃墟は町の変質した姿、とばかり思い込んでいた私は、人間のなかにも廃墟があることを教えられた。

 かつて私は、1人の被爆者あてに手紙形式で、次のように書いた。ー福田須磨子様。15年前、はじめてお宅に訪ねたときあなたは、気おくれして写真も撮れずにいた私を逆に励ましてくれました。そして、すすんでカメラの前に立ってくださいました。後日、私は、あなたがお書きになった生活記録「われなお生きてあり」を読み、深く考えさせられたものです。文中、「私は今、何をしなければならないか、本当にわかって来たような気がした。私に課せられたもの、私でないと出来ないもの、それは被爆者問題を世に訴えること」とあります。そう、あなたは「私にでないと出来ない」こととしてカメラの前に立たれました。では、そういうあなたを撮った私自身は、私でないとできないこととしてシャッターを切っただろうかと。

 日本原水協の仕事は1961年で終わり、同年、写真集となって世界に配られた。それは、それなりに意義があったと思う。しかし、私の気持ち整理しきれず、これは仕事なのだ、と機械的に割り切ったことへの自己嫌悪があとに残った。 

 現場で受けたショックに自己嫌悪が重なって、私はいっそう長崎の「廃墟」にこだわるようになった。そして次の年、今度は仕事としてではなく、その次の年も、といった具合に長崎へ足を運ぶようになった。それは、上りのないスゴロクのようなものであった。私は巡礼者が聖地をめぐるように、被爆者の家々をめぐった。そして、戦争の影を、過去の出来事であると同時に現在進行形の死を、究極の廃墟を、撮りつづけた。

 長崎は、日本のなかで最もカトリック信徒が多い地域として知られている。長崎のなかでも、原爆が投下された浦上は信徒が密集している地区である。アメリカはプロテスタントが主流とはいえキリスト教国である。長崎では、加害者と被害者とが、同じ神に祈りを捧げている。偶然の出会いであろう。しかし私は、運命のいたずらを思わないわけにはいかない。

 長崎では、「受難」という言語表現がよく用いられる。ユダの裏切りによって磔の刑となったキリストに由来する宗教言語である。信仰をもたぬ私にとっては馴染みの薄い言語である。が、しばらく長崎にいると、なぜかこの地にふさわしい表現のように思えてくる。そして、被爆者と向き合う私は、祈るような気持ちでシャッターを切るようになる。被爆者は世紀末の神、つまり核時代のキリストなのかも知れない。

1986年10月

長崎 <11:02> 1945年8月9日(東松照明 /新潮社)より

展示構成

モノクロ 26点

会期中の在廊予定

INTERFACE−Shomei Tomatsu Lab. の東松泰子さんの在廊予定はありません。本展企画担当の友長が在廊・対応予定です。在廊予定に変更がある場合は、Facebook、X(旧Twitter)でお知らせします。

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