イベント:176シネマ #2「写真家の映画/モンタージュとジャーナル映画」
*今回は映画上映会のイベントです。写真の展示はありません。
開催概要
gallery 176では、写真家が撮影した、または写真が関連した映像を紹介する「176シネマ」を、2017年8月より始めました。第1回は、珍しい写真家マン・レイの映画を上映し、好評を博しました。
その「176シネマ」の第2回を3月に開催します。今回は、「写真家の映画」「モンタージュとジャーナル映画」という二つのプログラムを、二日連続で上映します。
今回上映する映画はすべてサイレント映画ですが、ピアノの生演奏付きとなります。プラネット・プラス・ワンを中心に、関西でサイレント映画の伴奏家として活躍する鳥飼りょう氏が、ピアノを演奏します。映画は、当時の映写速度での上映となります。また、上映前後に、プラネット・プラス・ワン/CO2事務局長の富岡邦彦氏から、当時の映画状況についての解説及びトークがあります。
開催日
2018年3月17日(土)、18日(日)
上映作品
プログラムA「写真家の映画」/上映68分+解説・トーク約50分
「雨」1929年/オランダ/16コマ/18分
「橋」1927~28年/オランダ/16コマ/18分
「H2O」1929年/アメリカ/16コマ/13分
「バレエ・メカニック」1924年/フランス/16コマ/19分
プログラムB「モンタージュとジャーナル映画」/上映100分+解説・トーク約40〜50分
*富岡氏にる解説後の上映/サイレント映画・鳥飼氏のピアノ生演奏付き/上映後富岡氏のトークあり
上映時間
3月17日(土)
15:00〜 プログラムA「写真家の映画」(17:00ごろ終了予定)
17:30〜 プログラムB「モンタージュとジャーナル映画」(19:50ごろ終了予定)
20:00〜 懇親会
3月18日(日)
13:00〜 プログラムB「モンタージュとジャーナル映画」(15:30ごろ終了予定)
16:00〜 プログラムA「写真家の映画」(18:00ごろ終了予定)
料金
上映会(解説・演奏付き)
1回券(プログラムAまたはBのどちらかを鑑賞可能):事前申込 1,500円/当日 1,700円
1日通し券(プログラムAとBの両方を鑑賞可能):事前申込 2,800円/当日 3,200円
懇親会
3月17日のみ開催:事前申込 500円/当日 700円
定員
各回 35名
主催
gallery 176 友長勇介、西川善康
協力
プラネット・プラス・ワン/CO2運営事務局/神戸映画資料館/神戸芸術工科大学
申し込み方法
*申し込みフォームからのお申し込みは、3月17日(土) 15:00までとなります。3月17日(土) 15:00以降にお申し込みされる場合は、お名前、メールアドレス、電話番号、ご希望の券種(1回券、1日通し券)、ご希望の日時、人数を、info@null176.photos までメールにてご連絡ください。
*申し込みは、メールまたは電話でも受け付けています。メールの場合は、お名前、メールアドレス、電話番号、ご希望の券種(1回券、1日通し券)、ご希望の日時、人数を、info@null176.photos までメールにてご連絡ください。
*電話の場合は、お名前、電話番号、ご希望の券種(1回券、1日通し券)、ご希望の日時、人数を、050-7119-9176 まで電話でご連絡ください。
*料金は当日会場にてお支払いください。当日は上映時間の10分前ごろから受付・入場開始の予定です。
プログラムA「写真家の映画」
「雨」Rain / Regen
1929年/オランダ/16コマ/18分
監督・脚本・製作:ヨリス・イヴェンス、マヌス・フランケン、撮影・編集:ヨリス・イヴェンス、製作会社CAPIフィルム
ドキュメンタリー作家として有名なヨリス・イヴェンスが、オランダのアムステルダムの都市生活を、“雨”をテーマにして描くシネポエム。
「橋」The Bridge / De Brug
1927~28年/オランダ/16コマ/18分
監督・撮影・編集:ヨリス・イヴェンス、製作会社CAPIフィルム
ロッテルダムの跳ね橋は船を通すために橋を上げ、船が通過すると再び橋が降りて列車が通る。この機械のリズムを詩的な編集で見せる映画詩である。
ヨリス・イヴェンス 1889〜1989
〝オランダ写真界の祖〟と言われるゲオルグ・アンリ・アントン・イヴェンスの息子として、1889年に生まれ、父の写真店のアムステルダム支店を経営し、短編実写映画を撮影していたが、1920年代初頭のワルター・ルットマンやエッゲリング、ハンス・リヒターらの〝絶対映画〟に影響される。政治運動にも加担し女性ジェルメーヌ・クルルと知り合う。1927年から28年にかけて「橋」を撮影。
「H2O」
1929年/アメリカ/16コマ/13分
監督:ラルフ・スタイナー
写真家ラルフ・スタイナーも映画に興味を持ち、1929年にムービーカメラで〝水〟を主題にした詩的な映画詩を製作した。その後イヴェンスと同じようにスタイナーもドキュメンタリー映画に可能性を見出すようになった。
ラルフ・スタイナー 1899〜1986
1899年、オハイオ州クリーブランドにドイツ系の家庭に生まれる。1920年代初めに、クラレンス・H・ホワイトの学校で写真を学ぶ。その後、主として広告写真の分野で活動。その作風は、ストレートフォトグラフィを基調とし、「物」を極めて冷徹なまなざしで捉えるノイエザッハリッヒカイトの影響を強く受けている。
「バレエ・メカニック」Ballet Mécanique
1924年/フランス/16コマ/19分
監督:フェルナン・レジエ、撮影:マン・レイ
1920年代の初頭はマン・レイやマルセル・デュシャンらのダダイストの影響から画家も映画に興味を持ち、映画フィルムを素材として考えるようになるが、キュビズムの画家レジエは写真家マン・レイの助力で本作を完成させた。
マン・レイ 1899〜1986
マン・レイは、本名エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudnitsky。1890年、アメリカのペンシルベニア生まれ。1897年にニューヨーク、ブルックリンに引っ越し、高校時代より画廊に出入りし画家を目指すようになった。
1915年、25歳でフランスの詩人と結婚。マン・レイを名乗るようになった。写真機を購入し、マルセル・デュシャンと知り合い、1921年、デュシャンと「ニューヨーク・ダダ」誌を創刊。同年7月にはパリに移り、モンパルナスに住んで写真家としての活動を中心にしてゆく。
数ヶ月後には、フランスの歌手・モデルであるキキ(アリス・プラン)と恋に落ちる。職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになる。またソラリゼーション(白黒反転映像)を表現技法としてはじめて取り入れた。
1923年7月6日、ダダのグループが公演会を催す。出演は作曲家ジョルジュ・オーリック、ダリウス・ミヨー、エリック・サティ、ストラヴィンスキーら新古典主義の演奏があり、その後、ツァラの戯曲「ガスのこもる心臓」の上演とジャン・コクトーやツァラの詩の朗読も企画された。マン・レイはこの公演で上映する作品として3分の「理性に帰る」という映画作品を急遽製作した。これがマン・レイの映画への最初のアプローチであった。この作品がフランスにおける前衛映画の第一歩であった。
こうして前衛芸術家たちの映画は、映画館で公開されるものとは〝別の映画〟として製作されることになる。フランシス・ピカビアに依頼され、マン・レイ、デュシャン、エリック・サティらが出演したルネ・クレールの監督した1924年の「幕間」は映画製作を指向するクレールの第1作となった。
アメリカ人のカメラマンだったダドリー・マーフィが、画家のピカビアに声をかけて製作した「バレエ・メカニック」も同年のことであり、この1924年にダダは決定的に分裂し、ツァラと対立した詩人アンドレ・ブルトンが提唱した、「シュルレアリスム宣言」を発表。フロイドの心理学をベースに思想活動にまで及ぶこの運動に、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ポール・エリュアール、ベンジャマン・ペレ、アントナン・アルトー、ルネ・シャール、ルネ・マグリットらとともにマン・レイも参加する。
以後キキの出演する「ひとで~海の星~」を1928年に撮った。キキと別れた後に撮ったのが「サイコロ城の秘密」である。この作品は、ダリとブニュエルのシュルレアリスム映画の金字塔「アンダルシアの犬」と同じパトロンでありノワイユ子爵の資金から生まれた。
プログラムB「モンタージュとジャーナル映画」
「カメラを持った男」The man with the movie Camera / Человек с киноаппаратом
1929年/ソ連/16コマ/100分
ゴス・フィルム配給、VUFKU製作、監督・編集:ジガ・ヴェルトフ、撮影:ミハイル・カウフマン、編集助手:エリザベータ・スビロヴァ
〈プロローグより〉
1929年に映画カメラで撮影し、フィルムに記録した6巻の日記
注意:これは映画的なフィルム体験による対話である。従ってこの映画には字幕は必要としない。また現実を写したもので物語も存在しない。従って俳優も出演していない。この映画の目的は映像による真の世界言語の創造であり、演技や文学的な言葉すら必要としない。
上記のようにこの作品はソ連においても実験的な映画であり、1918年以後、ニュース映画のシリーズを担当したヴェルトフが、ロドチェンコらの〝フォトモンタージュ〟の影響で造った〝映画詩/シネ・ポエム〟の延長であり、エイゼンシュテインが意味やテーマに向かう手法としてモンタージュを使ったのに対して、より唯物的であり、実際エイゼンシュテインはヴェルトフのこのモンタージュには批判的であったという。
多重露光、ストップモーション、スローモーション、早回し、移動撮影など当時の最先端の撮影技法を多用しており、いまだに実験映画の金字塔になっている。
ジガ・ヴェルトフ 1895〜1954
本名デニス・アルカディビッチ・カウフマンは、1895年にポーランド生まれ、1915年にモスクワに移り、イタリアの〈未来派/未来主義者〉の影響で、名前をジガ・ヴェルトフ(ジガ:ウクライナ語で〝独楽〟の意味、ヴェルトフはロシア語で〝回転する/永久運動〟)を名乗りはじめる。前衛的な詩を書き、言葉のモンタージュを始める。また録音、再生できる蓄音機を手に入れて、音声のモンタージュ〝聴覚実験室〟を準備していた。まさにノイズ・ミュージックの原点である。
1917年の10月にヴェルトフは教育人民委員の映画部に所属すると、1918年から週刊映画として週刊ニュース映画のシリーズ「キノニェジェーリア」を担当し、ニュース映画の編集者となった。また1919年には「革命記念日」1921年〜22年には「国内線の歴史」など、ストックフィルムの編集もしている。「煽動列車」ではソ連各地を旅行しながら、映画によるソ連のアピールをしていた。こうして1922年6月から1925年まではヴェルトフを中心に仲間と「キノプラウダ(映画真実)」のシリーズを担当するようになる。また1924年からは「キノ・グラース(映画眼)」という即物的な考え方でニュース映画をとらえ、〝レフ〟にも参加し、マヤコフスキーらの影響から映画によるルポルタージュという考え方を実践した。その最大の成果がサイレント最後の「カメラを持った男」である。
しかし、スターリンの時代になり、〈社会主義リアリズム〉が始まるとソヴィエト政府からは形式主義的との批判を受け映画製作の機会を奪われ、晩年はスターリンによる反ユダヤ政策の影響でニュース映画の編集に従事させられた。
1954年モスクワで58歳死去。
ヴェルトフ没後の1968年、商業映画から決別したジャン=リュック・ゴダールがジャン=ピエール・ゴランらとつくった映画製作グループ「ジガ・ヴェルトフ集団」の名称はヴェルトフに由来し、1960年代末から70年代の初頭にゴダールの再評価によってより知られるようになった。
解説者・演奏者プロフィール
富岡 邦彦(プロデューサー/映画研究家)
脚本執筆などを経て、長編劇映画のプロデュースをはじめ、映画祭のプログラマー、海外映画祭の審査員なども担当し海外の映画祭や若手映画監督とも親交が多数。古典作品を中心に上映する上映室プラネット・プラス・ワンの代表。関西を中心に活躍する、若手映画監督の育成などにも努めて、映画製作や、映画史の講座、また俳優ワークショップ、子供映画ワークショップなど多数開催。未公開映画の字幕翻訳も担当。
シネアスト・オーガニゼーション大阪(CO2)運営事務局長。
プラネット・プラス・ワン webサイト: http://www.planetplusone.com/
CO2 webサイト: http://co2ex.org/
鳥飼 りょう(ピアノ)
サイレント映画伴奏者。ピアノ、パーカッション、トイ楽器等を演奏。
全ジャンルの映画に即興で伴奏をつけ、これまでに演奏した作品数は400を超える。映画に寄り添うその演奏は好評を博し、国内・海外の映画祭にも招聘されている。また、オーケストラへの客演やダンスとの即興演奏にも取り組むなど、多彩な活動を展開している。
現在、年間100公演以上のサイレント映画伴奏を行っており、最も上映会で演奏する伴奏者のうちの一人として活動している。
webサイト: https://www.facebook.com/ryotorikai.music/
Twitter: @ryo_torikai