© Shomei Tomatsu – INTERFACE
爆心地から約0.7kmの上野町から掘り出された腕時計(1961年)
展覧会概要
タイトル:〈11時02分〉NAGASAKI
作家名:東松 照明
会場
gallery 176(ギャラリー イナロク)
大阪府豊中市服部元町1-6-1/阪急宝塚線 服部天神駅(梅田から11分)下車 徒歩1分
会期
2024年5月17日(金)〜6月11日(火)
休廊日
水曜・木曜/5月22日(水)、23日(木)、29日(水)、30日(木)、6月5日(水)、6日(木)
開廊時間
13:00〜19:00
企画
gallery 176 友長勇介
協力
INTERFACE−Shomei Tomatsu Lab.
Gallery Nii Tokyo
開催概要
gallery 176を開廊する時の目標のひとつに、東松照明さんの写真展を開催したいという思いがありました。
今回、東松照明さんの奥様、東松泰子さんのご協力もあり、東松照明写真展〈11時02分〉NAGASAKI を開催する事ができました。泰子さん、本当にありがとうございます。
「私の写真展に来られた方々が、展示している写真を見て、感じた思いを持ち帰り、持ち帰った場所でその思いを語ってもらえればと思う」というお話を東松先生がしてくれた事がありました。
その東松先生の言葉通り、1人でも多くの方にお越しいただき、東松照明さんの作品から感じ取ったメッセージを持ち帰っていただければと思います。
gallery 176 友長勇介
作品説明
核時代のキリスト
国破れて山河ありという。さらに直截には国破れて廃墟ありだ。戦中、私が住んでいた名古屋は、何度も米軍機の空襲にあい、被爆した。町は爆弾で叩かれ焼夷弾で焼かれて廃墟と化した。にもかかわらず私は、廃墟を特別なものと思わなかった。渦中にいると崩壊感覚が麻痺するのだろうか。隣り合わせの死を怖れないように。
廃墟が見えてきたのは敗戦後のことである。連日のように襲来したB29の爆音が空に響かなくなったとき、沈黙と静寂の彼方に廃墟が見えてきたのである。もっとも、私はまだカメラを持っていなかったけれど。
私が写真を始めたのは、敗戦から5年後である。私はまもなく基地や廃墟を撮るようになった。が、基地や廃墟を撮るため、どこかへ出かけたわけではない。私の住まいは、米軍に接収された旧日本陸軍の連隊跡地と隣接した町にあった。だから。カメラを向けると、自動的にアメリカが写り込むのである。また、ちょっと歩くと廃墟に出会った。基地も廃墟も、私にとっては、ありふれた日常の光景であった。
日本の高度成長は凄まじく、いまでは、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にまでなった。日本が不死身のように甦ったのは廃墟からである。この地点からしか出直すことができなかった、という意味で廃墟は戦後日本の原像である。
廃墟の究極に原子野がある。究極兵器と呼ばれている原爆によって破壊された都市や人間の変質した姿である。いうまでもなく広島・長崎の廃墟のことである。原子野は20世紀中葉にはじめて出現した全く新しいタイプの廃墟である。それは、核時代を生きるものの誰もが怖れている世界の終焉を先取りした光景の一端である。
私は、いまでも長崎を撮りつづけている。が、はじめて長崎へ行ったのは、1960年である。草の根の市民運動として出発した日本原水協から依頼があり、仕事の1つとして長崎取材を引き受けたのだった。
私は、原水協の人に案内されて、被爆者の家々を訪ねまわった。そのとき、私の受けたショックをどのように伝えたらよいか。一瞬にして町が全滅したこと、7万余の住人が死亡したことなど、桁違いに大きい原爆の破壊力と殺傷力について、ある程度の知識はもっていた。しかし私は、放射能を浴びた人たちの戦後について、あまりにも無知であった。
長崎には、15年前の8月9日午前11時02分で止まった時と、その時を基点とする日の移ろいがあり、被爆者の死が、2つの時を繋ぐ桟となっていた。この15年間、長崎では、たくさんの人が、毎年、ひっそりと亡くなっている。私が長崎で見たものは、戦争の痕跡だけではなく、終わらない戦後であった。また、廃墟は町の変質した姿、とばかり思い込んでいた私は、人間のなかにも廃墟があることを教えられた。
かつて私は、1人の被爆者あてに手紙形式で、次のように書いた。ー福田須磨子様。15年前、はじめてお宅に訪ねたときあなたは、気おくれして写真も撮れずにいた私を逆に励ましてくれました。そして、すすんでカメラの前に立ってくださいました。後日、私は、あなたがお書きになった生活記録「われなお生きてあり」を読み、深く考えさせられたものです。文中、「私は今、何をしなければならないか、本当にわかって来たような気がした。私に課せられたもの、私でないと出来ないもの、それは被爆者問題を世に訴えること」とあります。そう、あなたは「私にでないと出来ない」こととしてカメラの前に立たれました。では、そういうあなたを撮った私自身は、私でないとできないこととしてシャッターを切っただろうかと。
日本原水協の仕事は1961年で終わり、同年、写真集となって世界に配られた。それは、それなりに意義があったと思う。しかし、私の気持ち整理しきれず、これは仕事なのだ、と機械的に割り切ったことへの自己嫌悪があとに残った。
現場で受けたショックに自己嫌悪が重なって、私はいっそう長崎の「廃墟」にこだわるようになった。そして次の年、今度は仕事としてではなく、その次の年も、といった具合に長崎へ足を運ぶようになった。それは、上りのないスゴロクのようなものであった。私は巡礼者が聖地をめぐるように、被爆者の家々をめぐった。そして、戦争の影を、過去の出来事であると同時に現在進行形の死を、究極の廃墟を、撮りつづけた。
長崎は、日本のなかで最もカトリック信徒が多い地域として知られている。長崎のなかでも、原爆が投下された浦上は信徒が密集している地区である。アメリカはプロテスタントが主流とはいえキリスト教国である。長崎では、加害者と被害者とが、同じ神に祈りを捧げている。偶然の出会いであろう。しかし私は、運命のいたずらを思わないわけにはいかない。
長崎では、「受難」という言語表現がよく用いられる。ユダの裏切りによって磔の刑となったキリストに由来する宗教言語である。信仰をもたぬ私にとっては馴染みの薄い言語である。が、しばらく長崎にいると、なぜかこの地にふさわしい表現のように思えてくる。そして、被爆者と向き合う私は、祈るような気持ちでシャッターを切るようになる。被爆者は世紀末の神、つまり核時代のキリストなのかも知れない。
1986年10月
長崎 <11:02> 1945年8月9日(東松照明 /新潮社)より
展示構成
モノクロ 26点
会期中の在廊予定
INTERFACE−Shomei Tomatsu Lab. の東松泰子さんの在廊予定はありません。本展企画担当の友長が在廊・対応予定です。在廊予定に変更がある場合は、Facebook、X(旧Twitter)でお知らせします。
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